Text:Katsu TONTAROU
Edit:Shun TAKEDA
歌手としてのビートたけしの最高傑作は「浅草キッド」である。多くのミュージシャンにもカバーされ、名曲のほまれ高い一曲である。だけどあえて注目したいのは「浅草キッド」の同名のアルバム、そのトリ前に置かれた「四谷三丁目」。恋に狂乱する男女を、いかにも80年代らしい勢いのいいロックで歌い上げる。
「雨の四谷の 曲がり角 / おれの女が 泣いてる / がんじがらめの 曲がり角 / おれの頭が 狂ってく」
23歳の誕生日、年上の女性、四谷三丁目
2000年代なかば、23歳の誕生日を一緒に祝ってくれたのは、たまに飲みに行っていたゴールデン街のバーで働く年上の女性だった。四谷三丁目交差点近く、こないだこのうしろの席でbirdとみうらじゅんが一緒にいるの見たよーなどと話をしながらもつ鍋をつつき、その日もたしか、雨が降っていたように思う。
アルバム『浅草キッド』が発売された1986年、たけしが所属していた芸能事務所はいまも四谷三丁目に社屋を構える太田プロダクション。たけしはその事務所のすぐ近所に住まい、杉大門通りで居酒屋「北の屋」を経営していた。愛人も近くに住まわせていたはずだ。たけしが高田文夫と組んで『ビートたけしのオールナイトニッポン』や『オレたちひょうきん族』で一世を風靡したころである。
杉大門通りには、その女性とよく通ったカラオケスナックがあった。雑居ビルの二階で、80歳を超えてもかくしゃくとしていたマスターと、その奥様がふたりでやっているお店だった。マスターはすぎもとまさとの「吾亦紅」を、これはいい歌だからね、きっと紅白に出るんじゃないかなと思っているんですよ、と歌ってくれた。その年の大晦日、すぎもとは紅白に出場した。
がんじがらめのロックンロール
ヨツサンから新宿方面へ歩いて少し、四谷四丁目の交差点のすぐ近くに、そのころたけしが住んでいたマンションがある。マンションの駐車場にたけしのポルシェが入っていく様子や、ファンがたむろしているところがよく見られたという。マスコミも押しかけるようになってしまって、結局はすぐに引っ越してしまうのだけれど。
その女性の部屋は、ヨツサンの交差点から歩いてすぐのところだった。いろんな話をしてくれた。むかし『SMスナイパー』に載った話、妻子のいる男性との話、彼女がやってるバンドの話、その男性は東京に単身赴任中でいまも付き合っているという話、ビートたけしの「四谷三丁目」という曲の話。1Kの彼女の部屋には、部屋の2/3を占めようかというクイーンサイズのベッド、ギブソンのSGがあった。そこで買っておいてくれたケーキをいっしょに食べた。
「よくね、明け方、俺らが帰る頃に、必ずホワイトの前で誰かが喧嘩してたよ。だいたい(内田)祐也さんだった。(中略)……怒鳴り声と、あの甲高いロックンロールが聞こえて、マネージャーに喧嘩させて、「おい、お前が殴れ」って自分は見てるだけなんだ(笑)。俺はマンションから見てたの」
(『白く染まれ ホワイトという場所と人々』アイビーパブリッシング、2005)
「ホワイト」は、いわゆる業界人が集まるバーだった。たけしの住むマンションは、「ホワイト」の新宿通りを隔てて向こう側。きっと内田裕也たちを、バカだな、と思いながら、たけしもまたそこに身をおいていた。奥さんと一緒に住みながら、近所には愛人もいる。雨に打たれて照れ笑いとも苦笑いとも言える表情を浮かべるたけしが、容易に想像がつく。
「酔って叫んだ 女の声 / 雨がはげしく たたいて / 追った男の てれ笑い / がんじがらめのロックンロール」
その後、たけしは都内の別の場所に豪邸を建てて引っ越していき、離婚し、愛人と一緒に住んでいる。誕生日を祝ってくれた年上の女性は、その男性の子供を産み、彼を追って大阪に引っ越していった。birdは子供を産み、いつの間にかみうらじゅんと結婚していた。
「ほれたはれたのロックンロール」! 四谷三丁目は、どうやらそういうところらしい。
Writer
1983年神奈川県生。ライター、とんかつ研究家。横浜DeNAベイスターズの必勝を祈念して、日々とんかつを食べている