映画や書籍など様々な作品を通じて得た「町」や「まちづくり」に関する着想をレビューする本企画。第10回目は、「ファンタジア!ファンタジア!」や「喫茶野ざらし」など多様なアートプロジェクトを実践するインディペンデント・キュレーター青木彬による、京都の障害福祉NPO法人「スウィング」の取り組みとそこに集う人々のエピソードを描いた木ノ戸昌幸『まともがゆれる:常識をやめるスウィングの実験』のレビューコラム。
Text:Akira AOKI
Edit:Haruya NAKAJIMA
性の多様性や差別問題への関心の高まり、ネットニュースからは新しい価値観の浸透の気配を感じるが、スマホから目の前のまちに視線をずらせばどうだろうか。新自由主義とコンプライアンスへの過度な気遣いに息苦しさを感じてしまうことも少なくない。目の前のまちの中では誰かが決めた正しさを守ろうとして、「何かか確実に過剰であり、何かが決定的に欠けてしまってるのかもしれない」(木ノ戸昌幸『まともがゆれる:常識をやめるスウィングの実験』P003より)。
そんな“ケツの穴の小さい”社会が押し付けてくる、「まともな生き方」に戦う術を教えてくれるのが本書『まともがゆれる:常識をやめるスウィングの実験』である。
あなたの「まち」にはどんな人が生きているか
私はインディペンデント・キュレーターという肩書きで、展覧会やアートプロジェクトの企画・運営を生業にしている。企業や自治体から依頼をもらう仕事は、美術館のようにアートの文脈や制度が了解されているような場所だけでなく、屋外や遊休不動産を会場とすることが多い。「都市とアート」、「アートによる地域再生」といったキーワードはここ20年ほどで浸透してきたものかと思うが、そんな仕事柄私自身も関心の高いテーマだ。
学術的な整理を棚に上げて書き進めれば、「都市」という言葉にはエスタブリッシュな匂いもあれば、その広大さの裏側を想起させるようなドキドキ感も伝わってくる。同時に様々な人々が行き交う雑多な画も浮かぶかもしれない。
他方で「まち」という言葉には、実際の街中を歩いている時のようなヒューマンスケールな印象がある。町/街を「まち」と表記するようになったのは、「まちづくり」に由来するのだと思うが、読者のみなさんはそんな「まち」にどんな人が居ると想像できるだろうか?
今でも一般的なのかわからないが、「まちづくり」に関わる人を“プレイヤー”と呼んだりしているのを聞いた時、違和感を覚えたことを思い出す。その理由は単純で、まちは一部のプレイヤーのためだけのコートではないからだ。
小学校、中学校、高校と上がってゆくにつれ、僕の周りからも不自然に、けれど確実に姿を消し、いつしか「いないこと」になっていた「障害者」と呼ばれる人たち。(中略)不謹慎かもしれないけれど、「皆さん、こんなところにいたんですか!」と面食らってしまった。そして彼らの「こうあるべきまともな姿」からのはみ出しっぷりは半端ではなく(だからおもしろく)、もはや「まとも」ってどんなだっけ?と、心地良く脳を揺さぶられるような衝撃を受けた。
(同上P195より)
初めて福祉施設で働き出した時の印象をこう語るのは本書の著者であるNPO法人スウィング(以下:スウィング)の代表をされる木ノ戸昌幸さん。スウィングは京都京都市上賀茂を拠点に、これまでの「障害福祉」の枠を超えて「一市民」として既存の仕事観や芸術観に疑問符を投げかけながらユニークな活動を展開している福祉作業所である。
本コラムとは一見無縁そうに見える本書だが、普段目にする「まち」からだけでは見えない人々にも想像力を働かせるきっかけになるかもしれないと思い取り上げてみた。
社会のグレーゾーンで揺れ動く
スウィングの取り組みの中でも長く続けている活動のひとつに「ゴミコロリ」という清掃活動がある。スウィングのメンバーが一様に青レンジャーのコスプレをした状態で京都の街中で勝手にゴミ拾いをするのだ。全身タイツのコスプレをすると、健常者、障害者という区別は不明瞭になり、ただただ「ゴミブルー」という「異質な存在」となる。活動を始めた当初は通報されてパトカーに囲まれることもあったそうだ。頼まれもしないのにスウィングのみんなが勝手にゴミ拾いへ出かけるのは、まちを綺麗にしようという善意からだけではなく、「一市民」として当たり前に自分たちのコートに堂々と立つためでもあるのだろう。
スウィングがまちの中で勝手に行う活動はそれだけではない。メンバーのXLさんとQさんは京都市内を走るバスの路線図を暗記しているという特技(?)の持ち主だ。そんな2人が行う「京都人力観光案内『あなたの行き先、教えます。』」では、バス会社の人のようなユニフォームに身を包み、観光地へ赴いて迷っている人にバスの乗り換え案内をしている。
「ゴミブルー」や「乗り換え案内」という異質な存在としてまちに繰り出す彼らの活動は、不審がられながらも、「どうやら悪いことはしていなさそうだ」というよくわからないグレーゾーンを彷徨い、出会した人々の常識を心地よく揺さぶってくれる。
誰かが救われるまち
スウィングの様々な活動の底には「生きづらさ」を感じてしまう社会への問いかけがある。木ノ戸さん自身、ひきこもりなどを経験し、社会が押し付けてくる「まともな姿」に苦しまれた。だからこそ、自分自身が、そして目の前の仲間が救われる環境をつくり続けている。
とにかくやればいいというのは幻想で、脱サラしてラーメン屋になって成功した人の話は伝わってくるけど、失敗して借金まみれになって自殺してしまった人のストーリーをメディアはあまり流さない。そして「やめる」ことや「逃げる」ことも、「やる」と同じくらいに大きな決断だと思うし、むしろそっちのほうが難しく、勇気が必要な場合もおおいのではないだろうか。だから「やめる」や「逃げる」を選び取った人も堂々と胸を張ってほしいし、心からの賛辞を送りまくりたい。
(同上 P203より)
東京のまちにはあなたを救ってくれる場所がいくつあるだろうか? 別にオシャレなカフェなんかじゃなくて構わない。ちょっと腰掛けてぼーっとできるだけの場所でもいいから、誰かが救われるような、逃げ込める場所がどんなまちにも必要だと思うのだ。
1989年生まれ。東京都出身。首都大学東京インダストリアルアートコース卒業。アートプロジェクトや、オルタナティヴ・スペースをつくる実践を通して日常生活でアートの思考や作品がいかに創造的な場を生み出せるかを探求する。まちを学びの場に見立てる「ファンタジア!ファンタジア!─生き方がかたちになったまち─」ディレクター(2018~)。都市と農村を繋ぐ文化交流プロジェクト「喫茶野ざらし」共同ディレクター(2020~)。社会的擁護下にある子供たちとアーティストを繋ぐ「dear Me」プロジェクト企画・制作(2018~)。これまでにキュレーションした主な展覧会に、「逡巡のための風景」(2019,京都芸術センター)、「中島晴矢個展 麻布逍遥」(2017, SNOW Contemporary)などがある。