どこかアンニュイさや陽気さを感じる作風や色合いのイラストレーションやコラージュなどのビジュアルアート作品をつくるデザイナー・アートディレクターの八多沙織。アートブックとして国内外で発表される作品は、日本だけでなく海外の人々の心にも愛着を育む。
そんな八多は、好きだった東京から、2年経っても愛着をもてないアメリカのノース・カロライナ州に拠点を移し活動することになった。突然の引っ越しにより、「切り刻まれてしまった」ように感じる人生をつなぎとめるかのように、コラージュ作品をつくり、東京とノース・カロライナの生活を見つめるコラム。第2回目は「眠れない夜」。
Text+Artwork:Saori Hata
Edit:Yoko Masuda

見つからない、愛するコンビニの代わり
東京に住んでいた頃、まっすぐに家に帰るのはとても難しいことだった。駅からアパートまでの徒歩10分強の道のりで、いくつものコンビニエンスストアが真っ白な店内を輝かせていたから。
わけもなくコンビニに入って、別に必要なわけでもないけどスイーツの棚を見たり、新作の何かを買って「コンビニで千円も使ってしまった。」と反省しながら帰宅する。持ち帰ったスイーツは、別に感動こそしないけどフツーに美味しい。「なんか食べたいな」というぼんやりとした欲望未満の気持ちを紛らわすのには、十分すぎるおいしさと価格。
昨今、日本のコンビニが観光客にも大人気だけれど、日本での生活を思い浮かべた時にコンビニという場所はものすごく当たり前で、フツーで、しかし特別な場所だと思う。日本を離れて暮らす多くの人たちは、コンビニがいかに自分の生活の一部になっていたかを思い知るのではないだろうか。そしてそのぽっかりと空いたコンビニの席に代わるものはどの国にもないかもしれない。少なくとも私はまだ、あのゴミゴミとして、便利で少しうっとおしい東京の帰り道の、空席を埋めるものは見つけられていない。
東京の原風景、コンビニエンスストア
「コンビニなんて、ないならないでいいじゃないか」と思う人もいるだろう。どちらかというとコンビニは無駄遣いを「してしまう」場所だし、日本の生活の中で、コンビニの立ち位置は豊かさというよりは生活の貧しさみたいなものを連想させる場所だと思う。
本当はまっすぐ帰って自炊でもする方が健康的だけど、なんとなく立ち寄ったコンビニの店内でダラダラと物色してしまう。この経験は、意味なく開いたスマートフォンを不用意にスクロールして時間を消費してしまう経験と、似ている。
深夜の歩道を明るく照らすコンビニたちの存在は、間違いなく日本という国がいかに豊かであるかの象徴の一つであると思うけれど、コンビニは何かを与えてくれる場所ではなく、何かを吸い取られる場所だと私は感じていた。
私たちがコンビニで使うのは「無駄なお金」や「無駄な時間」であって、少なくとも素敵な生活を彩るような場所ではない。それが日本人にとってのコンビニなのではないか。
それでも、ノースカロライナに引っ越して3年目を迎える今、東京での生活に想いを馳せるとフッと浮かんでくる情景の中に、必ずコンビニがある。そこで私はいかにコンビニが私の生活に密接していたのか、そして生活インフラ以上に、心象風景として、私の記憶にしっかりと根付いていたことを自覚し始めた。
例えば、東京でアパート探しをするとき、必ず一番近くのコンビニから徒歩何分かが表記されているし、まだ仲良くなりきっていない知人とでも、最寄りのコンビニや、好きなコンビニで会話が成立する。私はルームシェアをしていた大学生時代も、一人暮らしをしていた社会人時代も最寄りがいつもファミリーマートでうんざりしていた。たまにはローソンやセブンイレブンにも行きたいのに、渋谷のアパートは四方をファミリーマートに囲まれていてどの方角に歩いても一番最初に辿り着くコンビニがファミリーマートだった。
深夜のコンビニ通いを思い起こせば
小さい頃から不眠がちでとにかく寝入りに時間がかかる私は、一人暮らしを始め自由を手にすると深夜のコンビニ通いが当たり前になった。それは大人になるごとにひどくなっていって、最終的には眠れないとわかるやいなや、冬にはパジャマの上にロングコートをはおって、夏だったら寝巻きにしているジャージのまま、徒歩3分のファミリーマートに深夜の2時だろうと3時だろうと足を運んだ。
眠れない体で蛍光灯の白い光を燦々と浴びて、店内で繰り返される広告音声を浴びながら食べ物を物色する。銀鮭とトロハラス、焼きハラスのにぎりが5貫並んだ大好きな「サーモンづくし」がその時間帯にまだ残っていたらラッキーで、迷わず買っていた。セルフレジでそそくさと会計をして、パジャマ姿の自分をギュッと抱きしめながらコンビニ袋をぶら下げて帰っていると、罪悪感と共に安心感のようなものがじんわりと満ちてくる。今月はもういくらコンビニに使っただろうか、こんな高カロリーなものを夜中に食べる生活を続けていたら数年後の自分の体に返ってくるに違いない。そんなことを思いながらも、おうちに帰ったらお菓子やお弁当を広げてリラックスする自分の姿を思い浮かべて、なんだかホッとする。そして冬ならシンと冷え切った空気、夏なら生ぬるい深夜の空気を頬に浴びながら帰宅した。あっという間に家に戻ったら、冷えた体をまだ自分の体温が残っている布団に滑り込ませて、今度はパソコンのライトに照らされながらコンビニの箸をパチンと割る。
ただ不眠がちの人間が深夜にコンビニにいくというただそれだけの不健康な思い出一つで、こんなにもスケッチが捗るのは、私がアメリカにいて、東京の夜が遠い存在だからだろうか?
でも私は、東京のアパートにいたときもそんな夜を気に入っていたように思う。日々繰り返されていたことだからという理由以上に、私はその夜の光景や自分のムードをよく覚えている。毎日乗っていたバスの景色よりもずっとたくさんのスケッチが私の中に残っている。
アイスクリーム店はあるけれど
日本におけるコンビニエンスストアやそれに近いお店はノースカロライナにはない。全くないわけではないけれど、同じものとは言い難い。アメリカのコンビニはガソリンスタンドに併設された長距離運転手向けの売店のような形が主流で、店構えや棚の作りは日本のコンビニとほとんど同じだけれど、でもなぜだろう、日本のものとは似ても似つかないものがあるのだ。
それはやっぱりその売店が人々の暮らしの中に密接ではないからだと思う。新商品が頻繁に出るわけでもないので、ガソリンスタンドのコンビニに何かを求めて意味なく立ち寄ってしまうという話は聞かないし、国土が広く建物と建物の距離が離れているアメリカは車移動が圧倒的に多く、日本のように帰り道でふとコンビニに誘われて入ってしまうということもない。そしてほとんどの人が不用意に道端をうろついたりもしない。自分が不審人物に思われないためにも、不審人物や危険に出くわさないためにも。
でもそんなアメリカにも、人々が集まる夜の景色があった、それはアイスクリーム屋さんだ。日本ではほとんどない文化だけれど、アメリカ人は夜遅くにアイスクリーム屋に集う。多くのお店が18時、遅くても20時ごろに閉店するのに対して、アイスクリーム屋だけは23時ごろまで空いていて、人影もビルの灯りもなくなった夜でもアイスクリーム屋さんだけは蛍光灯の灯りを放っている。みんなでハンバーグ大のアイスクリームを食べながら夜中におしゃべりする、それがもしかしたらアメリカの田舎の夜の光景なのかもしれない。
ところがそれはノースカロライナのダウンタウン(繁華街)あたりの話であって、ほとんどの人は夜は出かけず、早く眠り、朝早くから働くのだ。
だから私は眠れない時間を寂しくアパートの中でうろうろして過ごすしかない。ここには徒歩圏内でちょっとした無駄遣いをできるコンビニエンスストアはないし、あったとしても千円で心満たされるものは買えない。だから私は寝室からキッチンを通りダイニングに行ったり、またダイニングからリビングを通り寝室に戻るだけの不眠症ライフを過ごしている。アメリカ輸出用に肉エキスが抜かれてしまった味のしないカップヌードルをいかに美味しく食べれるか調味料を研究した夜もあった。
寝室を抜け出してダイニングでぼんやりと夜明け前を過ごしていたとき、一度だけ、アパートの駐車場を大きな狐が横切っていくのを見かけたことがある。窓から見下ろしていたので正確な大きさはわからないけど、中型犬から大型犬ぐらいの大きくて立派な狐だった。
私は今、眠れない夜のあのコンビニ時間をとても恋しく思う。でも、当時の私は別にその時間を続けたいとなんて1ミリも思っていなかっただろうし、むしろこんな生活から抜け出したい! と思っていた。夜中の2時3時にコンビニに行く生活なんて、絶対続けるべき生活じゃないし。
でも、今もしそれが叶うなら、白い息を吐きながら、あるいはスニーカーの踵を踏み潰しながら、しんと静まり返った住宅街の角にあるあの白いコンビニエンスストアに歩いて行きたい。
不健康な深夜のコンビニライフのように、いつか振り返ったとき、当時の私は抜け出したかったけど、でもノスタルジックに心象風景として刻まれる景色はノースカロライナにあるだろうか。私の心の情景と結びつくまちの、あるいは生活の何かと出会えるのだろうかと考えている。

八多沙織 / HATA Saori
Instagram :@saori8ta
HP:saori8ta.com
グラフィックデザイナー、アートディレクター。2022年から個人で制作した作品発表を開始、2023年からアメリカノースカロライナに拠点を移し、制作活動を行っている。
国内外のアートブックフェアに多数出展。



