Stripes of views ー好きになれないまちで生きていくー #03 「まちの誘惑」

好きになれないまちで生活すること。気に入ったまちで暮らしたことがあればあるほど、そう思えない場所で過ごす日常は喪失感に苛まれる。それでもその土地で生きていくとき、何を見て、何を感じ、何を思い、どのように日々を重ねていくのだろう。好きになれないまちとは、どのような関係を紡いでいくのだろうか。

どこかアンニュイさや陽気さを感じる作風や色合いのイラストレーションやコラージュなどのビジュアルアート作品をつくるデザイナー・アートディレクターの八多沙織。アートブックとして国内外で発表される作品は、日本だけでなく海外の人々の心にも愛着を育む。

そんな八多は、好きだった東京から、2年経っても愛着をもてないアメリカのノース・カロライナ州に拠点を移し活動することになった。突然の引っ越しにより、「切り刻まれてしまった」ように感じる人生をつなぎとめるかのように、コラージュ作品をつくり、東京とノース・カロライナの生活を見つめるコラム。第3回目は「まちの誘惑」。

Text+Artwork:Saori Hata
Edit:Yoko Masuda

土地に人が住み、まちになり、そしてやがて都市になる過程があるとしたら、その境目はどこにあるのだろう。

東京は間違いなく、世界で1番の大都市の一つであり、その内側に無数のユニークなまちを抱える豊かな場所だ。

一方で私が今住んでいるアメリカ・ノースカロライナ州は、少なくとも都市ではなさそうで、いや、どうだろう、ギリギリ「まち」でもないのかもしれない。そんな場所。

道路があり、家があり、公園があり、お店がある。生活に必要なものと、インフラ、そして娯楽、こうして並べてしまえば日本のまちと変わらないものがそろっているはずなのに。

私はなぜこの場所を「まち」として思えないのだろう。

そんな問いに、数本にわたって向き合ってみようと思う。

愛おしい暮らしはどこに

「アメリカに住んで生活は変わりましたか?」
そう聞かれると私は必ず「いいえ、それが変わっていません」と答えてきた。朝遅く起きて、部屋で制作かインターネット。そんな生活をしていればどんな場所に住んでいようが変わりようがない。

インドアで1人遊びが好き。それは、どんな場所で暮らしていても、家さえ快適であれば生活の質を保つことができるアドバンテージのように思っていた。でも、私の場合、そうはならなかった。

渋谷に住んでいた時と比べて、およそ4倍の広さになったアパート。引きこもる空間としてはあまりある広さのアパートには、制作用の大きなテーブルと、広いリビング、そして寝室にはプロジェクターまで揃っている。テトリスのように詰め込まれた家具がひしめいていた、あの東京のアパートに住んでいた時の自分なら羨ましい! と間違いなく言ったはず。

さらに、ノースカロライナの天気は1年中素晴らしく快適で、アメリカのカラッとした青空が山にもビルにも遮られることなくのびのびと続いている。東京のように1日中雨が降るということはなく、傘を持って出かけたことはここ数年間で一度もない。

そんな広く気持ちのいい快晴の下、私は東京に住んでいた時と同様に部屋に引きこもり、そして、塞ぎ込んでいく気持ちを慰められないまま数年間を過ごすことになった。

家に引きこもって自分1人で過ごす。その生活の形がたとえ同じだったとしても、なぜこんなにも東京とアメリカでは違うように感じるのだろう。家の快適さ、広さ、それだけで言えばアメリカでの暮らしの方が、幾分、条件としては良いはずなのに。

誘惑ばかりのまち

東京のまちはいつも新しい誘惑が文字通り溢れかえっている。ひっきりなしに変わる広告に、イベント、新商品、自分がいくら受動的に生きていたって避けられない誘惑がどんどん飛び込んでくる。今日は絶対に新宿の大型画材店・世界堂に行って帰るだけにしようと思っても、新宿のまちに囲まれてしまえばそんな意思は簡単に折れてしまう。

素敵に装った人とすれ違うだけで「そろそろ新しい服をみようかな」という気分になる。帰り道、右手に見えてくる伊勢丹新宿のショーウィンドウがまた、ガラッと変わったデザインになっていて、出入り口からは店内の金色の灯りが目配せしてくる。

道ゆく人が持つ綺麗なショップバックには、見たことのある流行のお店のロゴが印刷されていて、ほんの数歩、帰り道から逸れるだけで、この無限の選択肢やキラキラしたものを家に持ち帰れる未来が頭にビュンビュンと飛び込んでくる。

「いやいや、今日はまっすぐ帰るんだ」

そう思ってデパートから目を逸らせば、反対側にはポップがひしめくドラックストアや、まだ入ったことがなかったカフェがこちらをじっと見てくる。

どんなに誘惑を振り払っても、結局、駅構内に着く頃には我慢の限界になっていて「今日はどこにも立ち寄らなかったし」と、駅構内のベーカリーやお惣菜屋さんで、自分の部屋に持ち帰るための手土産を買ってしまう。

「帰り道、ぶらぶらしてたら遅くなっちゃった」そんな日常の体験すらも、まちの姿と強く結びついていた。と、今なら思う。

誘惑のない帰り道

一方アメリカ・ノースカロライナはというと真逆で、自分から能動的に何かを見つけようとしない限り、景色はシーンと静まり返っている。見渡しても、道路の他に見えるのは雑木林や団地のような建物だけ。開けた道路を走る車たちが、一体どこに向かっているのか、遠くを覗き込んでも何も見えてこない。

「アメリカ人って一体何して過ごしてるんだろう」と、現地在住の日本人とよく話す。

広い道路を車で走っていけば、ちらほらとお店らしい建物が立ち並ぶ場所は見えてくる。でも、東京のように「あのまちに行けば何かあるだろう」、そんなふうに思える場所はほとんどない。道路脇の看板にはファストフードと保険会社の広告しか貼られていないし、どこに行っても入っているテナントは似たり寄ったり。そしてなんだかスカスカしている。現地住みの日本人はよくアメリカを「金太郎飴みたいな場所」と表現し合う。チェーン店で埋め尽くされているわけではないのに、なぜかどのエリアも、お店も個性がないのだ。

もちろん、東京のような大都市とアメリカの田舎を比較してもしょうがないのだけれど。でも「田舎と都会の違い」、それが私がこの場所を「まち」と思えない理由なのだろうか。

そんな田舎でインドア生活を送っていても、1週間に一度ぐらいは用事を作って出かけることがある。それは東京での生活と変わらない。

ノースカロライナの自宅から、車を20分ほど走らせた場所にあるローカルな画材屋。敷地面積は新宿世界堂の4倍はあるけれど、店内の密度は体感10分の1。高い天井の中に洋画材が揃っているゆったりとした画材屋だ。いつ訪れても店内の商品は変わらないし、日本の画材屋のように痒い所に手が届くアイデア商品もない。それでも、「日本にいた頃と同じように」を求めなければ過不足ない場所。

でも、1番の大きな違いは店内の作りでも品揃えでもなく外にある。買い物を済ませて外に出ると、目的を果たして軽くなった頭の中に飛び込んでくるのは、がらんとひらけたパーキングの景色。それだけ。

その次の一歩、帰り道を長引かせてしまうあの誘惑はあたりを見渡しても見つからない。着飾っていない、素朴なまち。そんなふうに言えないこともない、けれど。
まちにキョロキョロと視線を奪われることはない代わりに、広いパーキングで、自分の車を探すために首を長くする。後ろ髪を引かれることなくシートベルトを締めると、真っ直ぐアパートに車を走らせる。フロントガラスの向こうでは背の高い木々と、いつまでも工事中の更地の景色が流れていく。

固い意志を持っていなくても真っ直ぐ帰れる帰り道。私が視線を投げかけても、まちは私に目配せしない。それが今の私の帰り道。

でも、もちろん帰り道だけがそっけないわけではない。そもそも、「まちをぶらぶらする」という感覚はアメリカにはあまりないんじゃないだろうか。用があれば車で目的地まで行き、歩くのはパーキングから店までの間だけ。そして買い物が済んだらまっすぐ車に乗って、また別の目的地にナビを設定する。それがアメリカでのお出かけスタイルだと思う。だから、比較的お店が集まっているエリアに行っても、まちを散策している様子のアメリカ人に出くわしたことはない。

では、みんな外で過ごしたくなったらどうするのかというと、公園に行く。公園で簡単なスポーツをしたり、トレイルと呼ばれる散歩道を歩いたりして過ごす。3連休だろうと夏休みシーズンだろうとまちの景色は寂しいままだけれど、一方で休日の公園にはみっちりと人が集まっている。「外で過ごす」という目的のために公園に行き、「外で過ごす」という用事が済んだらまた車に乗り込んで帰る。

誘惑のある贅沢

用事を済ませて帰るはずが、あっちへふらふら、こっちへふらふら、気づけば両手にはいろんなものをぶら下げて。帰りの電車の座席の上で、きゅっと膝を閉じて紙袋を抱え込む。住宅街手前のドラッグストアやコンビニの明かりをくぐり抜け、自宅に着くと振り払いきれなかった誘惑のお土産を玄関におろす。

なぜだろう、私は東京でのそんな時間をすごく「自由だった」と思う。

きっと、全てが溢れすぎている東京での暮らしを鬱陶しく感じる人もいるだろう。所狭しと広告や店が並んで、まるでいつまでも追いかけてくるインターネットの広告のように。あるいは、不必要な物や時間にリソースを割いてしまいたくなるようにつくられたまちのインターフェイス、そのなかで取らされる選択は自由な選択じゃない。そんな意見もある気がする。

実際、ノースカロライナは天気が良く、気持ちがいい。引きこもって過ごすには勿体無いほど広々とした土地が広がっていて、視界に絡みつく鬱陶しいものは何もない。けれど、どこまで車を走らせても「ねえ次はどこで何をしたい?」とパノラマに収まり切らないほどの選択肢で私をヘトヘトにしてくれるまちは現れない。

あの鬱陶しく、ごちゃごちゃとしたまちこそが私に自由の感覚を作ってくれている張本人だったのかもしれない。どんなに広いオープンワールドで自由に動き回れても、風が気持ちいいばかりでは自由を感じることは、私にはできないようだった。用意された選択肢がいくつもいくつも現れて、進む道全てに岐路が広がり、それがまるで無限に網目のように絡まり合って広がっている。そんな環境がもしかしたら自由という感覚を作るのかもしれない。

八多沙織 / HATA Saori
Instagram :@saori8ta
HP:saori8ta.com
グラフィックデザイナー、アートディレクター。2022年から個人で制作した作品発表を開始、2023年からアメリカノースカロライナに拠点を移し、制作活動を行っている。
国内外のアートブックフェアに多数出展。

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