佐賀県武雄市で、武雄温泉エリアを拠点に「TAKEO MABOROSHI TERMINAL」を運営する株式会社まちづクリエイティブと、家庭用食器から割烹食器に至るまで、幅広く華麗な陶磁器を佐賀県有田市で焼き続ける創業150年の老舗窯元・幸楽窯。そのコラボレーションプロジェクトとして始動した「転写民芸」。幸楽窯の持つ伝統と技術を用いて、様々なアーティストやクリエーターが有田焼に絵柄を転写するこのプロジェクトは第2弾となる。
本特集で話を聞くのは、自身が足を運んだ土地や生活文化から得た体験や記憶をもとに制作をし、そのなかで「人間の生」への考察を試みるアーティストの寺本愛さん。寺本さんは、どこか異世界を連想させる目と掴みきれない表情のミステリアスな人物画を描き、個展や芸術祭で発表。また近年は日記を元にした作品でも注目を集める。今回は本プロジェクトで滞在した佐賀県武雄市の窯元や景色のなかで身体を通して得た感覚を足がかりとし、記憶とフィクションを織り込んだ器作品を制作した寺本さんに、ふだんの活動と器づくりの違いや繋がり、器の捉え方を語ってもらった。
Text: Yoko Masuda
Photo(Interview):Keitaro Niwa
Edit: Moe Nishiyama
「描く」理由は、人間の生を見つめ、表出させること
──寺本さんは発表される絵の中で、長らくモチーフとして「人」を描き続けられていると思います。その背景や理由を教えてください。
子どもの頃の私にとって、一番身近な「絵」は「漫画」でした。とくに「カードキャプターさくら」や「GALS!」といったファッションにこだわりがある漫画が好きで、参考にしながらオリジナルのキャラクターを考えて描いていたことを覚えています。画材は鉛筆が一番身近だったので自然と使っていました。それが私の絵を描くことの出発点で、今に至るまで「絵を描くこと」=「人を描くこと」だったのですが、最近ようやくその=が緩くなってきているところです。
──「人物」といってもさまざまな視点があるなかで、作品を描かれる際に起点になるのはどのようなことなのでしょうか。
以前は、人の装いや文化、時代や地域も混ざり合い、背景やルーツの特定できないわからなさを内包する人物像を描きたいと思っていました。しかし、徐々に自分が訪れた場所やその後のリサーチを通し、特定の土地や生活に思いを馳せて描くことに興味をもつようになりました。さまざまな地域に暮らす人たちの生活の様子や服装から立ち上がる「人間の生」を描くことで、より現実的な人の生活そのものについて考えるようになったんですね。今私が絵を描く際の関心は、この現実味を持った「人間の生」に移ってきているように思います。
たとえば個展「Livinig(リビング)」はまさにそのような関心から作りあげた展示です。会場の「海老原商店」は1928年から残る看板建築の景観重要文化財。その当主から、古い写真アルバムを見せてもらう機会があり、当時としては珍しくフランクな家族写真が残っていて、そこに写る2人の姉妹がとくに印象に残りました。というのも、私の親戚に10歳ほど年の離れた姉二人がいるのですが、昔可愛がってもらった記憶がふと思い出されたんですね。おしゃれでお化粧が好きなギャルな二人で、ピチピチのTシャツをもらったり、ゲームを一緒にしてくれたり、マニキュアを塗ってくれたり。当時の自分から見た彼女たちはとても素敵に思えていたなと。海老原商店の姉妹の写真を通して自身の記憶が蘇り、そして重なり、姉妹の絵を描くことにつながりました。
──「転写民芸」から現在に至るまで、さまざまな作品をつくっていらっしゃいます。日々考えられていることも含め、その変化についてもお話を伺えればと思います。
個人的に書いていた日記を元にした作品を2020年頃から発表するようになりました。日記は2019年ごろから書き始め、自分のWebサイトに載せるようになったのは2022年からです。頻度としては毎日書くこともあれば、数週間空くこともあります。電車移動中にスマートフォンのメモ機能に書いたり、パソコンの前に座って数日分まとめて書くこともあります。
──表現方法に「絵」だけでなく「日記」を用いるようになった背景は?
自分の内側にある様々な「もやもや」を、大きくなる前に自分の外側に出せる方法が日記だなと気がついたんです。そうすることで、絵の制作に対する過度なプレッシャーが弱まり、自分と絵の関係に力みがなくなる。絵だけだと、制作時間が長いこともあり発散方法が絞られすぎて、自分の内側にもやもやが溜まってしまうんです。だからといって自分の抱えるものすべてを絵で表現しようとすると絵が重たくなってしまい、それはわたしの描きたいものではありません。日々のちょっとした出来事や感情を日記に記すことで程よいガス抜きになり、バランスが取れるようになりました。
──「絵」や「日記」という表現を通じて、自分の中に留めておくことと、人に見てもらう作品として発表することは異なると思います。絵を描くことと日記を書くときの感覚は異なるのでしょうか?
自分にとっての「絵」は自分の内側にあるものを濾過して最終的に残るもの。その一方で「絵」から削ぎ落としたものも大事なものに変わりはないので、拾い上げて日記にしているような感覚があります。
また、これまで「絵」と作者である私自身を重ねて見られることが多く、少し窮屈さを感じていたのかもしれません。例えば「絵」の印象からホラー映画が好きな人というイメージを抱かれることがあります。自分はホラー映画は大の苦手で、そのくらいであれば気にしませんが、時々それ以上に「絵」のようなイメージを抱かれてしまっていることが何度かあり、その視線から逃れたいあまりその人の前で自分を卑下するような振舞いをしてしまい、後で自分は何をやっているんだろうと自己嫌悪に陥ることがありました。なので普段からもう少し自分自身のことを「絵」以外の方法で表現してみても良いのではと思うようになりました。
私の「絵」にどこか近寄りがたさを感じる人にも、日記に記す「天気が悪くて最近調子が悪い」などの些細な一言を通じて親しみを感じてもらえるかもしれない。こうして作品にふれてもらえる可能性が広がることも、私が日記をWebサイトに載せる理由のひとつになっています。
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