転写民芸

土器から続く「うつわ」の存在から。目に見えない世界に想いを馳せる|たかくらかずき氏インタビュー

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たとえインターネットの世界が消えても残るもの

──ではNFTのお話を伺ったところで……。「転写民芸」についてもお話を伺っていきたいと思います。「転写民芸」では人の営みとして受け継がれている技術としての民芸品を軸としながら、時代や視点の異なる表現を融合することを試みています。作り手としてはどんな感覚で取り組まれているのでしょうか。

前回の話にもつながりますが、僕はずっと陶芸をやりたいなと思っていました。映像作家やデジタルアートの作家で陶芸にはまる人って意外と多いのですが、それはデジタル上では例外を除き触覚が使われないことに比べ、陶芸は「触れること」が中心にあるものだからだと思います。作る過程も手で触れますし、手だけでなくコップや皿は使う時に口にも触れますよね。

また、陶器は物理的な強度が強く、長く残ります。絵画よりもずっと長く残る。東日本大震災の約1年後に福島県の周辺にリサーチに行ったとき、食器の破片がいくつも落ちているのを目にしました。津波の被害に遭い、たとえ人が住まない廃墟になっても、器の破片は残る。土に埋まっていてもいつか掘り出される可能性があるものを作れるのはいいなと思っています。

──土器は大量に出土していますよね。もしかしたら土器は耐久性があったので残っただけでほかにもいろいろ作っていたのかもしれないと想像してしまいます。

そうですよね。僕たちが使用している液晶テレビの破片が残ったとして、未来で掘り出されたその破片は「これはテーブルなのでは」と推測されるかもしれません。ふと思うのは歴史を遡り文明が残っていない時代にはもしかしたら「インターネット」みたいな技術が存在していたのではないかということ。「インターネット的なもの」自体はかたちが残らないものなので、可能性はゼロではないと思うんです。

僕はこれまでデジタルデータで作品を作ってきたので、もしインターネットがなにかの拍子に消えてしまったら、僕の作品はなにも残らないなと常々思います。そしてこの課題をインターネット側から覆そうとしているのがNFTなのではと。もし僕のパソコンが壊れたとしても、ネットワーク上のコンピューターがいくつか生きていれば、ブロックチェーン上のデータとしては僕の作品が残る。補完し合える関係性には希望があるように思えます。同時に、将来「インターネットの存在した時代」が丸ごとなかったことになる可能性があるのなら、陶芸やキャンバスのように物質に自分の作品を残したいとあらためて思うようになりましたね。

──自分の作品を残す一つの物質的フォーマットとして陶芸を捉えられているとき、今回は小さなカップアンドソーサーを選ばれています。民芸品は「日常的に人に使われる道具」でもあるわけですが、どのように考えて作られているのでしょうか。

1回目はポットをキャンバスとして捉え、好きなものを描いて転写しようと、自分の「作品」の延長にあるものとして考えていました。一方、今回は「カップ」という道具としていいものにしたいというプロダクトデザインを軸に、ここに絵があると飲むときに楽しいなとか、動作や体験も踏まえてカップの柄を設計しました。カップは少しサイズが小さいので、台湾茶を飲むのにおすすめです。台湾茶はポットに淹れたお茶を何回かにわけて少しずつ飲むのでちょうどいいサイズです。

ポットは十二支をモチーフに描いたので、カップとソーサーも縁起が良いものがいいなと連想し蛇と象のシンプルな絵柄を考えました。幸楽窯の社長さんからは蛇は売れないよとアドバイスをもらったのですが、僕はアジアで蛇柄のものをよく見るし、特に白い蛇はありがたい縁起物の象徴だなと思い描きたいなと。社長は悩んでいましたが、説得しました(笑)。

儀式的な行いの先に生まれるもの

──実際にできあがったポットとカップを使ってみてどうですか?

第1弾でポットを選んだのはちょっと魔術的なものに思えたからなのですが、急須やポットは口をつけませんが水を出しますよね。それって不思議だなと思っていて。ポットに茶葉を入れて、お湯を注ぎ、時間をあけて、カップに取り出す。最初からカップに注いでもいいはずなのに、わざわざこの段階的な行為を踏むことが、どこか儀式的で面白いなと。デジタルデータでいえば、パスワードを入力し画面を開き、ファイルを開いて、新規作成をする。すべてがフォーマット化された形式であり、儀式的で面白い。陶芸の制作過程も儀式的な気がします。

──たしかに。あたりまえにこなしている生活の行為って儀式的ですよね。たとえば当たり前に手を洗うことも儀式的だなと思います。

日本人は古くから目に見えない存在を感じ取り、日常的にもそうした存在を畏れ敬う儀式的な行いを大事にしてきた民族だと感じています。現代におけるコロナ禍では全世界が目には見えない「コロナウイルス」の存在を「ある」ものとして認めざるを得なかったですし、東日本大震災のときは目に見えない「放射能」の存在を「ある」という形で認識するしかなく、「妖怪」の存在もそれらに近しい認識のされ方をしていたのではないかなと。

そして同時に、日本は目に見えない存在をないものとして撲滅するのではなく、「共存する」ことを選んできた島国なのではないかなと思っています。そのあり方自体が、モンスターと妖怪の違いなのではないでしょうか。コロナ禍も、徹底的にウイルスを撲滅しようという感じじゃなかったですよね。

──目に見えない存在を受け入れてきたからこそ生まれる表現もあるのかなと思うのですが、たかくらさんは「作る」行為を通じて、「作品」をどのようなものとして捉えていますか。

「お守り」って、物理的になかに仏様が入っているわけではないですよね。それでもお正月にお札一万円で買うのは、お寺や神社や目に見えない仏様との繋がりをどこかで信じているから。僕の作品も、「お守り」のようなものだと思って捉えてもらえたらいいなと。

そもそも現代アートそのものが、ある意味では詐欺的なものであるにもかかわらず、そのことをだれも言わないというのが現代アートのルールです。だからある種少し危険な商売でもありますが、でもそうではないとブラックボックスは作れないですし、ブラックボックス的なものにお金を払うことがなくすべてロジックで理解できてしまう世界になったら面白くないなと。あまりにモダニズム主義にいきすぎると、茶道ってなんで器をまわすんですか、とすべての儀礼が不要になっていきます。

僕は、世の中はすべてフィクションなのだと捉えています。デジタルの世界は科学技術の集大成のように考えることもできますが、どちらかというと人間のフィクションの集大成なんじゃないかと思っていて。フィクションの上に社会がある。社会は全てフィクションで、フィクションを捨て、リアルを追求していくとただの野生動物になってしまう。おそらく唯一、人はフィクションを信じることができる動物なのです。だから社会がこんなに発達している。お金も食器も美術も、フィクションの道具としてとても面白いものだと思っているし、重要な演出なんじゃないかなと思いますね。

──たかくらさんの作品は言葉で「わからなさ」をわからなくていいよねと伝えるのではなく、面白くなってしまう、楽しくなってしまう感覚がありますよね。

展示をすることや作家活動をすることは、社会に対する自分の態度を示すことだと思っています。といっても社会に対して大きな異議を唱えるみたいなことはしないですけれど。

格好つけないようにしたいと思っているので、自分がわかっていることをわかりづらくはしないようにしようと思っています。なので、この展示でわからないと思われることっていることは、僕自身もわからないと思っていることなんですよ。僕は知ってるけどね、みたいなものはブラックボックスを作っても自分で開けられてしまうので人類の本当の疑問にはなりえない。人類の本当の疑問につながるブラックボックスをつくって、僕がわからないことをむしろ教えてほしいと思っていますね。

 

PROFILE

たかくらかずき / Kazuki Takakura
アーティスト/ Artist

山梨県出身、1987 年生まれ。東京造形大学大学院修士課程修了。3DCG やピクセルアニメーション、3D プリント、 VRNFT などのテクノロジーを使用し、東洋思想による現代美術のルール書き換えとデジタルデータの新たな価値 追求をテーマに作品を制作している。現在はおもに日本仏教をコンセプトに作品制作を行う。京都芸術大学非常勤 講師。opensea NFT シリーズ「BUSDDHA VERSE」を展開中。演劇集団『範宙遊泳』アートディレクター。山梨県 市川三郷町ふるさと大使。
https://takakurakazuki.com/profile.html

 

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