聞き手は、東京・高円寺で<記録>をめぐる書籍などを扱う「ヤンヤン」を営む城李門。記録されたプライベートな叙述や表現を現代においてどのように読み解き、再利用することができるのか、作家の表現を通して考えるべく今回のインタビューが実施された。
Edit:Jumpei Itoh
Writing:Rimon Joh
Photo : Nana Takashima
Location:YanYan
◎VHSを使用した作品制作を始めたきっかけ
——VIDEOTAPEMUSIC(以下VIDEO)の多くの作中で登場するVHSという記録メディア。活動の初期から、なぜVIDEOさんがこのメディアに注目されていたのかを教えてください。
VIDEO:僕が音楽制作を始めたのは今からちょうど20年ほど前の2005年ごろ、大学生の時。ちょうどその時期はいろいろなレンタルビデオ屋が取扱メディアをVHSからDVDへ移行していた頃で、VHSはレンタルビデオ屋から必要がなくなり、すごく安い値段で叩き売られていたんです。*1 駅でワゴンセールをやって、1本100円で投げ売りをしていたり。もともとhiphopに代表されるような、サンプリングや音源をコラージュするような曲作りの方法が大好きだったこともあり、そのような安く処分されていたVHSを集めて素材にした音楽を作ったことが制作の始まりでした。レコードも、当時から安いものは安く手に入りましたが、時勢もあってVHSの方が気楽に安く手に入る、というのが自分の中であったから、VHSというメディアを選びました。今となってはVHSがもの珍しいから「なんで集めるんですか?」ってよく聞かれるけど、お金をかけずに手に入る身近な存在だからこそ、素材に使っています。
——アクセスの良さから始まり、現在までVHSを制作で使い続けるというのは、作家にとってこのメディアの特性が重要である、という側面もあるのだと思います。例えばVHSの場合、DVDに比べて画質が劣っていたり音質にも差がある、という特徴もありますが、そのようなVHS特有の個性というのもVIDEOさんの制作にとって大事な要素なんでしょうか。
VIDEO:写真や文章、同じ映像でも8mmフィルムや、さらに古いもの……といろんな記録物があるなかで、VHSは音声まで記録されているところが一番特徴的なメディアだと思います。もちろん、スマホの動画も音は入るけど、音もセットで撮れる映像記録メディアを遡ると、VHSが特に初期にあたるんです。もっと遡ると、8mmフィルムで記録しているものはいっぱいあるけど、基本音は入っていないですよね。同録でちゃんとした機材を持っている人は録っていると思いますが、一般家庭で撮るようなものだとなかなか音が入らなかった。VHSなら映像がメインでありつつも、実は音の記録もそこにあって、あまり気に留めていなかった部分がたまたま録音されているという偶然性やメディアの特性が面白さであり、今の段階で制作に扱う理由かなと思っています。
——メディアの特性でいえば、例えば、道路で「ご自由にどうぞ」と紙袋に入れられた不要なVHSを見かけたとして。再生機材を所有しているかどうかというのが、それを引き受けるかどうかを判断する上でまず考慮する点ですよね。それも、例えばタイトルも記載されていないようなVHSが入っていたら、不気味さや怖ささえ感じる。そのような、メディア自体が持つ不気味さのような、不思議な力を感じることもままあるような気がします。
VIDEO:それはすごく僕も思っていることです。たぶん、思春期に観たホラー映画の影響なども大きいと思います。『リング』*2とか『ほんとにあった! 呪いのビデオ』*3も、ホラーってその時代ごと、人が何に恐怖を感じていたかを如実に反映するじゃないですか。だからその時期はVHSにみんなが恐怖を投影していたんだと思うと、撮られてしまった映像の怖さって何なんだろうってずっと考えています。映像にノスタルジーを抱くだけではなくて、VHSが持つ「怖さ」とはどのようなものなのかというのは自分のテーマにもちょっとなっている。
——映画館で『リング』を見に行くよりも、VHSでそれを見た方がおそらく怖いのでは?と今では思います。怨念が刻み込まれているような。
VIDEO:心霊写真もそうですが、人はなぜノイジーな粗い画質の中に恐怖を見てしまうんだろう?という疑問があります。昔は視聴者から投稿されてきたUFOの映ったホームビデオを集めたものや、怪奇系のVHSがいっぱいありましたからね。古い日記や写真を見ても、ただ美しいノスタルジーだけではなくて、もうこの世にいない人や存在しない場所が映っているものに関する、なんとも言えない怖さはどこから来るのだろう?とずっと考えています。感覚的なものでもあるだろうし、子供の頃に観た映画やドラマの影響もあるだろうし。だけど、記録物そのものが持つ、もうすでにないものがそこにあるという不思議というのも、その怖さを構成する要素として大きいものがあると思います。
——手触りみたいものはあるかもしれないですね。誰かの古いアルバムや日記を読むと、その人が書いた筆跡や、丁寧にアルバムに写真を貼ったらしい形跡が残っている。それを生きた証そのものだと理解してしまうんですよね。ビデオテープ自体も大量生産されたものではあるけれど、画質やノイズの中に「手垢のついた」感覚を見てしまうんだと思います。わたしの店も古いアルバムを扱いますが、たまに他の古道具屋さんで、どなたかの遺品のアルバムの写真を、本から剥がしてバラで売っているところがあるんです。ただわたしはそれに抵抗がある。生きた証をほどけないというか、その人の人生への畏怖のようなものが商いに勝るんですね。
VIDEO:僕もそう。チェックはするんですけど、なかなか手が出ない。ただ、人が映っていない風景ものはわりと買うこともあります。人が映ってるものはちょっと強すぎて、なかなか手に取る勇気がなかったりもして。『Revisit』のブックレットでも書いているんですけど、長野県の塩尻にあるリサイクルショップで見つけた誰かの日記が気になって、そこに再訪するたびついつい手に取ってページをめくるんです。でも、直筆の日記から滲み出る書き手の存在感が強すぎてどうしても買って帰れないという経験はありました。
*2 中田秀夫監督、1998年公開
*3 1999年から続く、セル・レンタルVHSで展開されたホラービデオシリーズ
◎映っている/聞こえてくるものと制作の関係
——そういったVHSを収集する行為が制作に結びついているという中で、近作の『Revisit』のような全国各地で滞在制作を行うことが最近の活動と言えると思います。一方それ以前では、純粋に音楽として楽しめるような作品もたくさん制作されていましたよね。そのような作品でも、VHSの中で登場する音は多分に曲を構成する要素となったんでしょうか。その場合、VHSの内容と制作された音楽の間には結びつきがあったのでしょうか。
VIDEO:そうですね。映っている内容に引っ張られて楽曲のテーマやトーンを決めたり、映画などから要素や内容を結びつけたりしながら曲を作ることが多いです。
——そうすると、『Revisit』に代表されるような近年の制作姿勢にはどのように移行したんでしょうか。
VIDEO:活動を始めた頃はレンタルビデオ屋で購入した映画などのVHSをコラージュした作品を制作していたんですが、徐々にホームビデオ中心のものに変わってきて、その結果フィールドワークと結びつけた制作をしています。面白いのは、こういう制作をしていることを行く先々でお話しする、地域の方が「うちにあるけど、使っていいよ」と徐々にホームビデオのVHSを提供してくれるようになったんです。それによって、プライベートな、そこにしか記録されていない映像を扱う方向に自分の興味が徐々に移っていきました。とはいえ、実際物ありきですね。
——そうだったんですね。普段からVHSを収集されていると、さっきの「日記を買えなかった」という話ではないですが、日記よりもホームビデオなどを収集する方がご自身の感覚としてハードルの低さがあるんでしょうか。
VIDEO:どうですかね。でも、そんなことはないな。なんならホームビデオの方が全然怖い。でも、自分の作風がこういう感じだから、そこは勇気を出して持って帰ります。覚悟を決めて、半分呪われる覚悟で引き受けるという感じです。例えば廃墟から拾って帰ったりして、体調が悪くなってもしょうがないっていう。こういう名前で長年活動しているが故の、腹をくくっている部分です。
◎フィールドワークと音楽制作
音楽が有する、風土/風俗の「記録性」
——全国各地を回り、その経験を題材に制作を行うということでフィールドワークをされていると思います。こういう制作は依頼があって、ということが多いんでしょうか。最初のきっかけなどもお聞きしたいです。
VIDEO:そうですね。フィールドワークと作品が結びついたのは、依頼を受けたのが最初でした。でも、ライブで日本全国へ行くたびに、その土地のご飯を食べたりご当地の民謡レコードを買いに行ったり、リサイクルショップを覗いたり、元々滞在しているときにやっていることは昔から変わっていないんです。ただ近年、それを面白がって企画にして呼んでくれる人が増えてきたことから、滞在中の活動を作品化することにこの数年向き合っています。最初の企画としては、今回のアルバムに入っている群馬県の館林での制作が最初ではあるんですが、その前から近いようなことをやっています。例えば、富山県の伝統的な祭「おわら風の盆」で歌われる曲のリミックスを頼まれたことがあって。それは、当時の僕には縁もゆかりもない富山の伝統的な音楽だったんです。その時、何も知らない東京のミュージシャンが、民謡を単に音の面白さでリミックスするだけで良いのか?と感じました。それで自主的に富山県の現場へ行って、祭が行われる街並みを見たりフィールドレコーディングをしたり、そこで撮った音をリミックスで使ったんです。その頃から、曲自体にフィールドワーク的な要素を自主的に入れるようになったかもしれないですね。
——VHSもそうかもしれないですが、例えばレコードの場合って、音楽として発行されて聴くというレコードよりも、お土産やまちおこし、企業の宣伝が入っていたり、鑑賞以外の用途で発行されたレコードの方が多いのではないかと思います。また50年代後半にはソノシート*4が登場・普及したこともあって、今と比べてレコードが暮らしの中に完全に根付いていて、音楽でなくとも当たり前のように身近なところに「聴く」行為があった。そういうこともあって、民謡や祭の踊りみたいなものを残す文化が当然のようにあったのかな、と思っています。わたしたちがレコードショップを訪れて過去の音源を掘り起こして楽しむように、いずれ誰かが発掘してまた次の世代に物を受け継いでいくことができる、という意味では、物として残るというのが大事だと思っていて、わたしはそういった文化を今の状況でも継続するべきだと思うのですが、それを今の時代にやり直す方法や、実践の足がかりが分からないんですよね。
VIDEO:音楽も、今はけっこうエンターテインメントとして消費されるものとして受け入れられることが多いけれど、記録物としての側面も絶対にあると思っています。もちろん演奏することも好きですけど、僕がそもそも音楽に対して魅力を感じたのは、記録物としての側面の方でした。もう一度記録物としての側面をフィーチャーしても良いんじゃないか、というのはずっと頭の中にあって、それが今回の作品のような面倒なフォーマットに至ったきっかけにもなりました。やっぱり音楽も記録物、ドキュメンタリーなんですよね。
——前に「円盤」を主宰する田口史人さんがあるトークイベントで紹介していたものに、「いきているわらべうた 東京編」というレコードがありました。童謡文化の研究者の人が制作したものなのですが、どういうものかというと、まずその方が中野と日本橋の公園に行って、遊んでいる子供たちを「お菓子をあげるからちょっとおいで」という感じで録音スタジオに連れてくるんですよ。
VIDEO:いまそんなことをやったら問題になりそう(笑)
——とりあえずスタジオで子ども達を遊ばせておいて、環境に慣れたら「花いちもんめを知ってる?」と問いかけて実際に遊んでもらって、それを録音する。そうすると、同じ曲なはずなのに、地域ごとで若干、曲の様子が違ったりするんですよね。このレコード自体は、そういった歌たちが延々と続くものなのですが、それはまさしく記録物だと思います。そういうものが残ることで、視覚情報がなくても音の記録によって当時の暮らしを想像することができる。
VIDEO:民謡や仕事歌*5も、記録物として読み取れるものが多くあると思います。9月から金沢で行われる「発酵文化芸術祭」という企画に出品する作品でも題材にもしているのですが、酒造りの際に歌う酒造り歌というものがあります。、酒造り歌は、酒造りが機械化する現代以前に、酒蔵でお酒を作る時に、みんなで息を合わせて作業をするために歌った歌です。作業の機械化によって歌われなくなって、歌える人もごく一部だと思うのですが、そういう歌を採集して回った人もいるんですよね。僕も最近、それらが収録された4枚組のCDを買いました。聴くとやっぱり面白くて、例えば歌詞や譜面は残せるんですけど、録音されたものってそれぞれ調子が違って、同じ作業で歌う歌でも土地ごとに全然違う歌であったりテンポが違うんです。酒造りは、その時の気候や温度によって工法も変わってくるデリケートなものだから、おそらく作業時間も日によって全く変わることもある。きっとそういうことで、歌の単純な録音ではあるけれど、同じ作業中なのに土地ごとで全然テンポが違うのだと思います。歌の録音ひとつとっても、実はいろんな情報が記録されているんだな、と感じました。
——曲中に、その場所の文化や状況が垣間見えるんですね。酒造りだったら、例えば状況に応じて「今日はいつもより多めに歌おう!」みたい日もありそうですよね。
VIDEO:そうなんですよ。しかも、その歌も今日は何番まで歌う、という目安をリーダーが決めるんです。その日の気候によるものなのか分からないですけど、今日はちょっと長めにやるから十番まで歌うぞ、みたいな。それが作業時間を測る基準になってたりとかして。そんな録音されたものの中にある情報を読み込むことが面白い。エンターテイメントとして消費されていくだけではない音楽の魅力は、録音された音楽にもあるんだと思います。時代時代のいろんな情報は、歌詞の中だったり、リバーブの流行とか、サウンドそれぞれに蓄積されているだろうし。音楽って記録物なんですよね。
*5 労働・仕事の際に歌われる歌。労働効率を高めるために歌われることが多い。
◎ホームビデオを収集しパフォーマンスする<湖底>としての活動
——そういった制作をされていて、なおかつ最近、湖底という名義でのパフォーマンスもされています。わたしは2月に行われた東京・吉祥寺での公演ではじめて観ました。湖底のパフォーマンスがどういうものだったかというと、各地のVHSから収集したホームビデオの映像を編集、モンタージュしていきながら、VIDEOさん自身が映される内容を言葉にしたり、歴史的出来事や映像の中でBGMとして流れている曲の背景などを中心に語りを載せていくような実験的なものでした。このパフォーマンス形式に至るまでには、どのような経緯があったんでしょうか。
VIDEO:もともと湖底という名義で活動しようとは思っていなくて、あるイベントで即興パフォーマンスのオファーがあったことが始まりでした。当時、ちょうどホームビデオを集めていた時期で、VHSをいただくたびに、そこに映っているものを自分が認識できる範囲で一応全部文字起こしをしていたんです。家族旅行のVHSだったら、海水浴の場面で「どこの海か?」とか調べたり、「何人?」「家族が何をして、何を食べて、どのレストラン?」「BGMは何?」とか、どこに発表するわけでもなくライフワークとして、自分の知識で調べられる極限まで文字に起こしていました。それでテキストが溜まっていたのと即興をやってくれっていうお題があったので、ホームビデオをその場で即興的にコラージュしながら、そのテキストを朗読で重ねていくっていうパフォーマンスを苦肉の策で編み出しました。それがいざやったら、自分でもかなり面白いなと思い始めて。それで、VIDEOTAPEMUSICとしてのライブの時にも、湖底の要素をちょっと途中に挟んだり、依頼があれば積極的にやっています。最近は今回の『Revisit』ともなんとなくリンクしながら、積極的にやっている形式です。なかなかストイックな形なので、公演場所は選ぶんですけど。
——全国各地、ときには海外の地点が取り沙汰されることもあって、目まぐるしく変わっていく景色が、まるで多重露光のような形でディゾルブしていくパフォーマンスです。わたしが特徴的だなと思ったのは、途中で韓国のようすが登場する場面です。途中、ある特徴的な数秒の動きが4つ並んで、それを何度も繰り返すように再生される。合わせて同じ語りも繰り返すし、映像も繰り返しで、状況が何度もリフレインする。そうすると、ずっと集中して見ているはずなのに、「これ今、何が映ってるんだっけ?」とだんだん映るものが分からなくなる状況が訪れました。この混乱は面白くて、映像の情報は土地固有の動きであったり、そこにしかない物なのかもしれないけれど、それが突如としてぐっと距離感として自分と近づいたり、むしろ遠ざかったりする。場所に対する想像力が目まぐるしく変わっていきました。
VIDEO:結構短いシークエンスをループさせながら、そこに映っているものをずっと朗読しているじゃないですか。だからこそ場所の固有性みたいなものが出たりするし、今言われたようにループの中で「あれ、ここどこだっけ?」とも感じられる。そうかと思えばVHSの映像とサウンドのみが流れる瞬間が訪れて、不思議な時間が行ったり来たりするというのが湖底のパフォーマンスでもある、と思います。それから、VHSは音が記録できる記録メディアだから、音にも着目してもらえるとうれしいです。今挙げていた映像も、韓国の友達からもらった80年代のホームビデオで、夏に家族でお寺みたいな場所へ行く映像を使っているんです。映像の後ろでは、ずっとセミの音や鐘の音が鳴っている。ホームビデオの一般的な見方として、何が映っているかと考えると、家族でお寺へ旅行したときのビデオという情報として大抵は認識されるけど、後ろで鳴っている音はなかなかピックアップされづらいと思うんです。それを、このパフォーマンスではライブハウスで大きな音でループさせることで、聞き流していた音を強制的にずっと聴く、ということを実験しています。
——ホームビデオって、撮って見返すものじゃないですか。自分の経験としても、その時に見るものは、やっぱり被写体でしかないというか、そこに映っている思い入れのあるものなのであって、周りの建物ではない。音もそういう意味では、注目しきれていないさまざまな要素がある気がします。
VIDEO:音もそうだし、映像でも中心物というよりも周りの建物や植物、看板に書いてあるものの方を僕が喋る。第三者だから選べる/フォーカスできる要素です。撮った家族本人は、誰が映ってるとか、子供がまだちっちゃいね、というような見方をするけれど、他人のビデオを第三者が見ることによって起こる変化って何なんだろうと考えています。
——そういうまなざしが、映像が持つ情報の広さや景色を見ることの可能性を拡張していくことにもなるし、それを湖底のパフォーマンスでは自覚的に見られるのだと思います。そう考えると、近作の『Revisit』の制作で実践していることもそれに近いのではないでしょうか。『Revisit』の制作も、フィールドレコーディングやVHSの音声を抽出するという作業の中で、ある土地に根差している人では気づけないような場所の固有性を第三者的な目線で描き出す作業ですよね。これも、ある土地のことを理解したり、訪れた経験をからだにインプットすることの可能性を広げているのだと思っていて、すごく意義深いことだな、と感じています。この作品については、記事の後半にてお伺いしていきます。
(〈後篇〉に続きます)
ミュージシャンであり、映像ディレクター。失われつつある映像メディアであるVHSテープを各地で収集し、それを素材にして音楽や映像の作品を作ることが多い。VHSの映像とピアニカを使ってライブをするほか、映像ディレクターとして数々のミュージシャンのMVやVJなども手掛ける。近年では日本国内の様々な土地でフィールドワークを行いながらの作品制作や、個人宅に眠るプライベートなホームビデオのみを用いたプロジェクト「湖底」名義でのパフォーマンスも行っている。2015年の2nd album『世界各国の夜』以降、カクバリズムから多数の音源作品をリリース。その他にも国内外のレーベルからリリースされた作品多数。
X:@VIDEOTAPEMUSIC
Instagram:@videotapemusic
bandcamp:https://videotapemusic.bandcamp.com/album/revisit
2024年10月13日(日)東中野・ポレポレ坐
『行方知らずの記憶をまとって』
出演:清原惟・湖底(VIDEOTAPEMUSIC)・井戸沼紀美
上映:清原惟『三月の光』(2022、『MADE IN YAMATO』より)
上演:湖底LIVE
TALK:上記2人+井戸沼紀美+城李門(ヤンヤン)
OP19:00 / ST19:30
Charge:¥3,500+1D
企画・主催:ヤンヤン
湖底(VIDEOTAPEMUSIC)のパフォーマンスに加え、近作『すべての夜を思いだす』が話題となった、映画監督・清原惟さんの映画上映を合わせたイベントが、今回の聞き手でもあるヤンヤンの主催で開催。
さまざまな人々が持つ小さな記憶や記録へ、わたしたちが何を見出すことができるのか、映画を通して光を当て続ける活動をされている井戸沼紀美さんとのトークも交えながら考えます。
ご予約
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詳細はこちら
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